中大相撲部の歴史

相撲は、現在わが国で行われているスポーツの中で、最も古い歴史を持ち、国民性に合致し、普及している競技であることは周知の事実である。
学生相撲も明治の中頃から同好の士により行われていたが、明治四十二年に至り、ようやく機熟し、学生相撲大会が関東、関西で時を同じくして開催されている。
本学にあっては、一〇〇年前の明治四十二年になって高田光治、安保覚男などの先輩が同好者を募り、本学(錦町)校庭に土俵を構えたのが本格的な活動の始まりである。当時、本学は東京法学院大学から中央大学と改称した時期で、発展途上にあり、学生数も少なかったので相撲部選手と柔道部選手は一体であった。(当時はどこの大学でもそうであった)
創部は早稲田、慶応、明治の各大学などといった伝統の強豪校と伍していたのだが、相撲の実力はそれに伴うまでにはいたっていなかった。
明治四十四年九月に現在の学友会が創設され、それに刺激されてかなり組織的な活動をしていた。
対外的には明治四十五年(大正元年)には、東京学生相撲団が生まれ、大正二年には関東関西対抗大会が開催された。大正八年には堺大浜で第一回全国学生相撲選手権大会が呱々の声をあげ、昭和六年第十三回大会では、個人の部で三橋祐三郎が四位に入賞し、昨年で第八十六回を数えている。
さらに、大正九年には、関東学生相撲連盟が結成され、翌年には第一回の関東学生相撲選手権が開催された。この大会も今年で八十九回目の大会を迎える。(昭和二十年より東日本学生連盟と改称され、大会も東日本学生相撲選手権大会となった)
関東大震災により、錦町校舎の土俵を失ったため、神田美土代町に土地を借り土俵を再建した。この頃より当時の大日本相撲協会(現日本相撲協会)より矢筈山関をコーチとして迎えた。この頃、活躍したのは関憲治、北村一夫、長谷川伊、高橋主税、鈴木貞吉、松本不二男などの諸先輩である。

大正十三年頃には、さらに元本学常任理事、事務総長の小松東三郎先輩、中央大学常任理事、理事長代行の飯田甲子郎先輩、尾崎作次郎先輩などが加わり、明治神宮競技大会などにも多くの選手が出場するようになり、同十五には東北遠征を行い、連戦連勝するなど多くの実をあげている。
昭和年代に入って、本学はますます発展し、隆盛の一途を辿り、校舎も現在の駿河台に移転した。これに伴って、相撲部も学内の空地あるいは図書館建設前の敷地に仮土俵を作って不自由な稽古を積んでいたが、この頃より学内外の相撲大会が盛んに行われたので、相撲は広く普及された。この当時の先輩に成田万三氏や吉田三郎氏などがいる。
昭和六年には、長年の願望であった屋内道場が本館地下の倉庫を改修して完成。この頃から大相撲の井筒部屋より稽古代として紅葉川などを迎えるようになり、菊池揚三、森口二郎、三橋裕次郎、押田文明、三上金太郎先輩などによって本格的な練習が行われるようになった。その成果は、明治神宮大会の決勝で、常勝を誇っていた拓大に四対一で敗れたものの、第二位を獲得する栄に輝いたのである。
昭和八年には、大神健太郎先輩が全日本学生相撲満州遠征の一員に選ばれ健闘するなどした。こうして、翌九年には第十六回全国学生相撲選手権大会で五位を獲得した。十年には大神先輩、永山国男先輩などの努力で、一段とその陣容を堅めた。当時、活躍したのは元大谷重工業の総務部長で大谷重工業を実業団相撲界の王者に押し上げた根塚繁夫、渋谷幸次郎、藤間松太郎、野々村良三、本間 夫先輩などである。

昭和十二年、野々村先輩は、明治神宮大会大学の部で個人戦第二位を獲得。次いで、十三年には横山義雄、藤崎秀夫、神野竹二、駒井新一、松永一之などの諸先輩が活躍。十四年には松永、横山、平野、川口などで、団体でも二度目の二位に入賞し、ここに中興の業成った感がある。
また、同年松永先輩は、全日本学生渡満代表の一員に選ばれ、満州の各大会でも「中大・松永」の名声をとどろかした。川口透、平野光一、神保正二、島友二、山本晴次、中村篤、野村栄太郎、岩片(酒井)一、桑田政悦、岩崎一郎など諸先輩により、さらに向上の一途をたどった。しかし、戦局の緊迫のため、大会は縮小され、昭和十八年には対外活動は全く中止されてしまった。
第二次世界大戦も敗戦に終わり、国民全部が廃墟に打ちのめされていた時、いち早く世界の仲間入りを果たしたのは、スポーツであり、そのトップレベルに達した。
相撲部も昭和二十一年に復員して、復校した岩崎先輩を中心に、松永先輩を師範に迎えて再建に着手した。機能を停止していた関東学生連盟も、松永、神保先輩などの尽力によって、東日本学生相撲連盟と改称して発足。さらに、二十二年には日本学生相撲連盟も再組織され、戦前にもまさるような基礎が固められた。

昭和22年8月刊行の東日本学生相撲連盟名簿

中大相撲部も四十余年の伝統と名声をかけて、松永師範、中村先輩、岩崎主将、児玉修、石神隆三、服部正、鈴木主税、島川徳雄、藤川誠勝などの諸先輩による再建に対する精進にはすさまじいものがあった。
昭和二十三年の第一回全日本大学選抜七尾大会で、藤川先輩が戦後初の個人三位を獲得、ここに中央大学相撲部黄金時代の花開く端緒を作ったのである。この年、第四回国体で第三位、第二十六回全国学生選手権大会では、山本真資先輩が個人三位に入賞と新鋭の威力を発揮した。さらに、小林純男、宮野勇成、渡部徳治、二宮昭夫、島田勲(旧姓高瀬)などの諸先輩が栄冠を目指して、その基本固めをしていた。
本学はこの頃から、あらゆる分野のスポーツに進出。古めかしい伝統にとらわれない近代的なスポーツマン〝新興中央大学〟と呼ばれていた時で、相撲部もそうであった。昭和二十四年を迎えて、地下道場から設備の完備した学内の体育館に移り、高須晃、平聖一、堀松英明、大田黒忠輝など高校界の逸材を新人として迎え、神野総監督、松永師範、中村監督などの態勢のもとに、連日猛稽古を行った。
合宿の時は、師範、監督が部員と起居を共にして和を図り、朝夕の練習では、松永師範が陣頭に立って胸を貸して稽古をつけた。卒業後、すでに十年を経ているにもかかわらず、松永師範の強靭な精神力、体力にはベテラン、新人の部員一同が驚嘆の他なく、全員が汗と泥にまみれた稽古によって、新興中大の礎が着々ときずかれて行った。
第二十八回東日本学生選手権大会では、山本、平、高須、藤川、高瀬、宮野、堀松のメンバーで勝ち進んだ。決勝では、かつて黄金時代を築いた拓大(当時の紅陵大)を下して、明治四十二年に相撲部を創設以来、実に三十八年目にして念願の優勝を成し遂げた。個人戦でも二位に藤川、三位に高須が占めたのである。

昭和二十五年には、大森茂雄、北湯口光雄、三ヶ森琢治、小井土恒栄、水田泰準など諸先輩を補充し、緒戦の慶、明、中の三大学リーグ戦において圧倒的な連勝を飾り、七月の全日本学生選抜七尾大会では、決勝で明大に三―二で惜敗し二位。十月の愛知県津島市の第五回国民体育大会大学の部でも、団体優勝を遂げ、個人戦においても、高須が優勝。さらに、第二十八回全国学生選手権大会でも三位を獲得、ここに王者中央大学の座を築いたのである。
昭和二十六年にも上田勝三、工藤元一郎、阿久根雄三、稲津幸三郎、飯田速雄などを新たに迎え入れてさらに充実。東日本学生選手権大会では、二回目の優勝を飾り、この年から行われた全国大学選抜高知大会では、団体、個人(平)ともに初優勝を遂げた。
この年に特筆されるのは、東日本大会、東西対抗、高知大会と二位をあげた高須(当時の主将)が、全日本学生選抜ハワイ遠征選手団の一員に選ばれ、全勝の好成績を残したことである。なお、この年、全日本学生相撲ランキングには一位高須晃、二位平聖一、五位大森茂雄と本学選手が上位を占めている。
昭和二十七年には、西角英巳先輩が入部。東日本学生選手権大会では、本学が優勝候補の本領を発揮し、五対〇と圧倒的に勝ち進み、準々決勝で伏兵拓大と対戦、二対二の大将決勝に持ち込まれ、本学高須、拓大井上の間で、学生相撲の史上に残る水入り二回、熱戦実に二十五分の力闘を展開。武運我にあらず、惜敗した。個人戦では、平が初優勝した。
さらに、この年、堺大浜での第三十回全国学生相撲選手権大会では、大森、上田、平、三ヶ森、高須のメンバーで、一回戦関学を四対一、二回戦拓大を四対一、決勝戦では東京農大を五対〇と、圧倒的な強さで初の優勝を飾ったのである。個人戦においても、本学選手が強く、一位が高須、二位が平が占め、高須は、本学では初の学生横綱(第三十代)を獲得したのである。大正八年の第一回より三十四年目にしての快挙であった。
この時の喜びを師範松永一之は、「我々は今日この栄冠あるを期して黙々と精進してきた。ここに栄えある初の優勝を遂げたことは、これら選手諸君の不断の練磨は申すに及ばず先輩諸兄の限りない尽力が大であったと思う」と語っている。
ここに、本学は新興中大を脱皮し、王者中大として君臨し、中央大学の黄金時代を画したのである。これらの戦果は、松永師範が述べているように、高須、平などの現役選手が支柱となって、監督のもと不断の練磨をかさねたことは無論であるが、諸先輩の限りない尽力と戦前に師範として指導してきた井筒部屋、同系の時津風部屋などの尽力の賜物である。

昭和二十八年には、学生相撲界に一時代を画した高須、平両先輩を送りだしたが、照井久見、石黒馨、西村敦統、永木研二、富田正美、木村稔、寒阿江義勝、佐藤俊雄、橋向慶治、小野田明生、対馬逸雄など高校相撲界の俊英を集め、高須監督のもと王座を堅持してきたのである。
昭和二十九年には、笹原明、絹田和豊、和田章、岩本正信。昭和三十年には、多くの入賞記録を残した浜野之(横山)他、後藤正、呉服円治、村上竜雄、島宮守、夏堀嘉三、則岡理公、亀井稔、萩野浩由、松村豊、佐竹輝昭など多数の有望新人が入部。昭和三十一年には、小倉邦広、大友(工藤)富治、村上敏樹が入部した。
昭和二十八年より東日本学生選手権大会には四連勝を記録。個人優勝に上田勝三、石黒馨、二位にも石黒馨、三位に照井久見、西村敦統、全日本学生選抜七尾大会には優勝一回、二位二回、個人三位に西村が入賞した。
全国大学選抜高知大会では、優勝二回、二位一回、個人二位に石黒、照井、三位に石黒、浜野が獲得。東日本学生リーグ戦では優勝二回、二位二回を獲得した。
全国学生選手権大会では、優勝二回、二位一回、三位一回、個人優勝学生横綱には、三十二代照井久見、三十四代石黒馨が獲得した。
昭和二十八年より昭和三十一年まで実に十一回の優勝を記録。とくに昭和三十一年度には団体で全国大会に準優勝の他、出場の全大会に優勝の偉業を成し遂げた。

昭和三十二年には、数々の輝かしい記録を残した二十八年入部組十一名を送り出したが、後にプロ入りし、小結まで昇進し、学生相撲のプロ入りの誘引となった。大塚範(豊国)、入賞記録の多い平田拓三、好成績をあげた中谷育弘、谷口征治、小林哲男、筒井国男、米原賢士、八幡正平、木原盛後らが入部した。大塚は新人ながら、東日本、七尾の両大会で個人三位に入賞し、逸材振りを発揮した。
昭和三十三年には、開健太郎、米村豊弘、寺沢昭夫、岡本定範、北山中、久恒昭治、遠藤未太郎、益田進が入部した。
この年、大塚、呉服、後藤、浜野、村上、筒井、開のメンバーで、東日本(七度目)、七尾大会(三度目)、全日本(四度目)の優勝を飾り、三大タイトルを獲得。第三次中大相撲部の黄金時代を築いた。個人でも、浜野が七尾大会で優勝。全日本アマ大会でも学生として初の三位入賞をとげた。
開は途中退部したが、自衛隊に入り、レスリングに転じて、後にオリンピックに出場した。
昭和三十四年には、中村員雄、後藤清、島松正義が入部。団体は各大会で二位、三位で惜敗した。個人では、大塚が力を発揮し、刈谷大会、東西対決、小樽大会で個人優勝した。
昭和三十五年には、久末正憲、赤沢輝夫、萩野誠士、竹中中、渋谷修が入部。七尾大会では四度目の優勝をとげ、個人でも平田が初優勝した。年度初めには、中大に大塚ありといわれていた大塚(大塚から豊国へ改名し、三十六年一月場所〈初場所〉十両に昇進)が夏場所からプロ入りを表明して抜けた後だっただけに、誉められる成績だった。
この年、数々の輝かしい記録を綴った高須監督から石黒へと監督の座がバトンタッチされた。
昭和三十六年には、成田一成、久留島昴、丹羽義敬、島宮広勝、根塚道夫(中大相撲部の恩人の一人である根塚繁夫先輩のご子息)が入部。豊国が十一(九州場所)新入幕。
昭和三十七年には、出口暢通、吉備弘明、涌井庸夫、山下一朗、清水功一、上村邦夫、村上光昭、矢部政博が入部。
村上は、昭和四十年五月幕下付け出しで大相撲の初土俵を踏み四十一年五月幕下で優勝するなどした。神光と称した。

昭和三十八年には、鍵岡史将、宮崎義宏、福田孝志、細岡勝沼、鍋島清健、泰隆一、中山卓也が入部。前年、宇佐美大会で二位に入賞している成田が、高知大会で三位、刈谷大会で初栄冠に輝いている。

昭和三十九年には、伊藤春男、林修が入部。東日本大会で成田が二位、出口が三位入賞。成田は全国大会と刈谷大会でも三位に入賞。豊国が九月場所(秋場所)で、大鵬・柏戸を連覇した。

昭和四十年には、平井芳孝、小野寺吉夫、熊野時次、西岡昭、羽瀬茂雄が入部。七尾大会で五度目の優勝し、高知大会でも四度目の優勝。個人でも出口が七尾大会で、鍵岡が和歌山大会で優勝した。
昭和四十一年には、大羽沢正男、中田米光、高瀬敏雄、須原弘充、高木哲二が入部。
昭和四十二年には、工藤東進大、高瀬武治、児島薫、中塚享が入部。四十一年、四十二年とよく健闘したが、勝運にめぐまれなかった。豊国が昭和四十三年一月場所を最後に引退した。
昭和四十三年には、羽瀬重幸、上野一義、平田武博、宇都宮勝美、福岡俊雄、福井良一が入部。羽瀬は小兵ながらうまい相撲で新人戦に優勝。団体では川崎大会で優勝している。コーチであった小野寺も頭角をあらわし、東日本大会、蕨大会で三位に入賞した。
昭和四十四年には、福田耕治、浜口泉、亀谷松雄が入部。高瀬が実力をつけ、高知大会で二位に、アマ大会では三位に入賞した。

昭和四十五年には、林一郎、大西嘉明、西川隆雄、田中基夫が入部。久しぶりに、福田、平田、上野、羽瀬、高瀬、児島、浜口の強豪メンバーで、五月の和歌山大会では初優勝。東日本大会では三位、全国大会で四位、青森・秋田の両大会で二位、高知大会では五回目の優勝を遂げた。北九州大会では高瀬が個人優勝、平田も刈谷大会で三位に入賞している。
昭和四十六年には、川島昌樹、一好俊司、石田清治、岩片智幸、小笠原賢治が入部。井上が元気で東日本大会で二位、全日本選手権で三位に入賞。羽瀬が川崎大会、七尾大会でともに三位に、平田も川崎大会で三位に入賞した。
昭和四十七年には、西川和宏、中塚光俊が入部。福田、大西、林、一好、浜口のメンバーで、東日本大会で通算八度目の優勝を飾った。その後の七尾大会で二位、宇佐美大会で三位に入賞。福田が実力をつけ、全日本選手権で二位、七尾・秋田の大会でも二位に入賞、秋田大会では浜口が初優勝した。
昭和四十八年には、工藤茂則、前田容周、福原潤一、宮崎昇、兼平重喜、扇谷宣典が入部。
昭和四十九年には、伊藤敏昭、石田稔、森正弘、田中寿秋、平田哲也、三浦宏之、西野泰弘が入部。一好が全国大会で個人二位に入賞。西川も高知大会で二位に入賞している。
昭和五十年には、北尾直樹、淡路谷勉、石井修、菊池俊太、三浦昌治、町田一也、古河隆男が入部。東日本学生体重別・中量級で工藤が優勝。七尾大会では三位に入賞した。
昭和五十一年には、柴田博喜、平岩大典、川島信治、宮本佳隆が入部。東日本大会で三位、東日本学生体重別・重量級で伊藤が二位に、中量級で工藤が三位に入賞。主将の伊藤と北尾がハワイ遠征選手に選ばれた。
昭和五十二年には、前田松美、山本正直、山西二三夫、若松郁夫、小林章浩、泰豊文が入部。七尾大会で三位、全日本学生体重別・中量級では淡路谷が初優勝した。

昭和五十三年には、道叉雅之、梅沢直雄、斉藤正義、太田稔、佐藤清光、橋谷明弘が入部。四月五日、新設成った南平の体育部合宿所に居を移し、多摩校舎の新道場で心機一転のスタートをきった。
昭和五十四年には、岡田茂義、竹越広志、渡部万平、松島基茂、近江信吾、中尾滋宏が入部。全国大会で三位に入賞。個人では刈谷大会でОB浜口泉が二位。

昭和五十五年には、加藤一之、津田浩幸、米沢誠一が入部。この年前田松美が全国大会個人で三位、東日本体重別中量級で2位、全国体重別同級で優勝。刈谷大会でОB浜口泉が二位。
昭和五十六年には、真田正博、森口忠雄、中川博一、佐野光昭、植文雄、山本真二が入部。刈谷大会でОB前田松美が三位。東日本体重別軽量級で佐藤清隆が二位に入賞。
昭和五十七年には、杉山信二、石山敏雄、村中一貴、深江健史が入部。七尾大会で三位。東日本大会で松島基茂が二位。刈谷大会でОB北尾直樹が三位。東日本体重別中量級で渡部万平が二位、重量級で岡田茂義が三位。全国体重別中量級で真田正博が三位に入賞。

昭和五十八年には、島崎智一、藤原豊行、小林照、荒牧大輔が入部。
七尾大会で真田正博が個人優勝。刈谷大会でОB浜口泉が三位。東日本体重別軽量級で米沢誠一が三位。
昭和五十九年には、河村昭、藤川洋、松井梅男、鈴木光義、竹前直行が入部。高知大会で真田正博が三位入賞。
昭和六十年には、井上達仁、下谷内勝利、小西武彦、龍山義弘、中山健二が入部。全国大会で三位、宇和島大会で二位。東日本体重別百㎏未満で龍山義弘三位、百十五㎏以上で藤川洋が三位入賞。

昭和六十一年には、城山聖詞、芳我弘之、斉藤泰成が入部。この年東日本学生選手権で団体二位。東日本体重別百㎏未満で小西武彦が優勝、百十五㎏以上で藤原豊行が二位、下谷内勝利が三位。全国体重別百十五㎏未満で松井梅男が二位、百十五㎏以上で下谷内勝利が三位に入賞。

昭和六十二年には、渡邊良正、友倉英樹、山本裕三、松村賢一、小野智良、川上康弘が入部。東日本大会で三位。宇佐大会で二位。東日本体重別百㎏未満で小西武彦が二年連続優勝。百十五㎏未満で龍山義弘三位、百十五㎏以上で井上達仁が三位。全国体重別八十五㎏未満で松村賢一が三位、百十五㎏未満で龍山義彦が二位に入賞。

昭和六十三年には、橋本勇、中西龍仁、三村成児、和田光広、仁禮哲昭が入部。東日本大会、抗和歌山大会で三位。宇和島大会で二位。宇佐大会で優勝。東日本大会で下谷内勝利が三位。七尾大会で小西武彦が二位に入賞。
平成元年には、室谷弘樹、岸田聡司、栗本剛、松村英樹、鈴木雄大等有望な新人が入部。七尾大会で優勝、宇和島大会で二位。栗本剛が東日本体重別百十五㎏以上で三位、全国体重別同クラスで二位に入賞。

平成二年には、松本良二、栄雄誠、榎大輔、下田正貴、片の坂由隆等有望な新入生が入部。東日本大会、宇和島大会で三位。栗本剛が全日本アマ大会で優勝。そのほか刈谷大会、宇佐大会で3位に入賞。東日本体重別百㎏未満で榎大輔が三位。全国体重別百十五㎏以上で小野智良が優勝。

平成三年には、中尾浩規、田中健治、米倉智晃、長岡年之、川井博樹が入部。 東日本大会で二位、全国大会、刈谷大会、十和田大会でそれぞれ三位に入賞。高知大会で優勝。個人では栗本剛が刈谷大会二位、中尾浩規が三位。東日本体重別八十五キロ未満で三村成児が三位、百十五㎏未満で松本良二が優勝。無差別級で室谷弘樹が三位。全国体重別百十五㎏以上で中尾浩規と橋本勇が三位。

平成四年度には、高校ナンバー1の出島武春、佐藤昭一、岡田拓郎、田中一也が入部。東日本大会で二位、全国大会で優勝。九州大会でも優勝。七尾大会、刈谷大会、宇和島大会、十和田大会、宇佐大会でそれぞれ準優勝。弘前大会で三位。個人でも、出島武春が全日本アマ大会で三位、東日本体重別百十五㎏以上で優勝、刈谷大会で三位、全国体重別百十五㎏以上で二位。

栗本剛が東日本大会並びに全国体重別無差別級で栗本剛が優勝、七尾大会で二位、東日本体重別無差別で三位に、宇和島大会で三位に入賞。全国大会と東日本体重別百十五㎏以上で中尾浩規が三位。栄雄誠が東日本体重別無差別で二位、和歌山大会および十和田大会で三位に入賞。

宇佐大会で室谷弘樹が二位、東日本体重別百十五㎏未満で榎大輔が三位と団体、個人とも輝かしい成績を収めた。栗本剛(武哲山)・室谷弘樹(若八嶋)が平成五年一月場所(初場所)幕下付け出しで初土俵を踏む。

平成五年には、園山智之、中島健朗、小松弘明、谷口正則、福里紳太郎、緒方清輝、銘形俊通が入部。七尾大会、宇和島大会、宇佐大会で優勝。東日本大会、高知大会、九州大会、十和田大会で準優勝。全国大会、刈谷大会、和歌山大会で三位に入賞。個人でも出島武春が東日本大会で優勝、全国大会で三位、東日本体重別無差別で三位、全国体重別無差別で優勝。

中尾浩規が東日本大会、宇佐大会で三位。松本良二が刈谷大会で2位、全国体重別百三十五㎏未満で優勝。園山智之が東日本体重別百二十㎏未満、全国体重別百二十キロ未満でそれぞれ優勝。中島健朗が東日本体重別百二十㎏未満で三位。全国体重別百二十㎏未満で米倉智晃が三位に入賞。松本良二が初場所、玉春日の四股名で幕下付け出しで初土俵を踏んだ。

平成六年には、田中康弘、中尾展也、大沢史彦、竹田大志、瀬戸谷俊夫、宮本仁が入部。 団体で高知大会、和歌山大会、九州大会で優勝。宇和島大会、十和田大会で二位。東日本大会、全国大会、七尾大会、刈谷大会で三位。個人で出島武春が七尾大会、十和田大会、宇佐大会で優勝、東日本大会で二位、宇和島大会で三位。中尾浩規が七尾大会で二位、東日本体重別、全国体重別無差別でともに二位。

中島健朗が七尾大会で三位、東日本体重別百二十キロ未満で二位。園山智之が東日本体重別百二十㎏未満で三位、全国体重別百二十㎏未満で二位。田中康弘が和歌山大会で三位。福里紳太郎が東日本体重別百二十㎏未満で三位。佐藤昭一が東日本体重別一〇五㎏未満で三位。

玉春日が平成七年三月場所新十両。平成六年七月場所(名古屋場所)栗本が四股名を武哲山と改名し、十両に昇進。玉春日が平成七年三月場所(春場所)十両に昇進。

平成七年度、山田和侍、満永智久、渡辺誠、平野純也、高岡利幸が入部。七尾大会で優勝。東日本大会、九州大会、宇佐大会で二位。刈谷大会、和歌山大会で三位。出島武春が全日本アマ大会で三位、七尾大会で二位、刈谷大会で二位、宇和島大会で優勝、九州大会で三位、東日本体重別無差別で優勝。

田中康弘が東日本大会で三位、東日本体重別百三十五㎏以上で三位。中島健朗が東日本体重別、全国体重別の百二十㎏未満でともに二位。福里紳太郎が全国体重別百二十㎏未満で三位。中尾浩規(若孜)平成七年十一月場所(九州場所)幕下付け出しで初土俵を踏む。玉春日平成八年一月場所新入幕、敢闘賞獲得。出島平成八年三月場所幕下付け出しで初土俵を踏む。

平成八年には、矢島健一、福浦勝、川崎誉士一、松本力、青木大介等有望新入生が入部。この年高知大会で二位、東日本大会と全国大会はともに三位。全国大会で中島健朗が二位、刈谷大会も二位。平野純也が東日本体重別、全国体重別九十㎏未満でともに三位。福里紳太郎が東日本体重別、全国体重別百二十㎏未満でともに三位。福浦勝が東日本体重別一〇五㎏未満で三位。青木大介が全国体重別一〇五㎏未満で三位。

玉春日が平成八年五月場所(夏場所)技能賞獲得。出島平成八年九月場所(秋場所)十両昇進、平成九年三月場所(春場所)新入幕ここまで負け越し知らずの出世、敢闘賞と技能賞を同時に獲得。同場所で玉春日敢闘賞獲得。

平成九年には、岡村輝彦、工藤聡、伊勢健司、高橋努、白石健司が入部。東日本大会、十和田大会ともに三位。和歌山大会で矢島健一が三位。東日本体重別九十㎏未満で満永智久が三位、百三十五㎏以上で中尾展也が三位、無差別で渡辺誠が3位。全国体重別百三十五㎏以上で田中康弘が三位。

玉春日が平成九年五月場所(夏場所)横綱貴乃花を一気の押し出し殊勲賞を獲得し、七月場所(名古屋場所)関脇に昇進。若八嶋が平成九年七月引退。出島平成九年九月場所(秋場所)二横綱貴乃花・曙を下し十一勝を挙げ、技能・殊勲両賞を獲得し、十一月場所(九州場所) 関脇に昇進する。田中康弘(魁道)平成十年三月場所(春場所)幕下付け出しで初土俵。

平成十年には、有望新人成田旭、依田道彦、中村泰明、上杉賢博、正木拓郎が入部。この年全国大会で優勝。和歌山大会、宇和島大会三位。九州大会で矢島健一が二位。東日本体重別九十㎏未満で満永智久が三位、百二十㎏未満で青木大介が優勝。全国体重別満永智久が九十㎏未満で優勝、百二十㎏未満で青木大介が三位。武哲山平成十年七月場所(名古屋場所)引退。中尾浩規平成十一年三月(春場所)十両に昇進し、四股名を若孜と改名した。

平成十一年には、遠藤望、高岡鉄也、岡村和彦、松本康徳、佐藤俊吾が入部。東日本大会で二位、全国大会で三位、七尾大会、刈谷大会、和歌山大会、宇和島大会、十和田大会でそれぞれ三位、九州大会で優勝。矢島健一が七尾大会、十和田大会、東日本体重別百三十五㎏未満でそれぞれ優勝。刈谷大会、高知大会、宇和島大会、九州大会、全国体重別百三十五㎏未満で準優勝にかがやいた。

また、成田旭が東日本大会で優勝、東日本体重別百三十五㎏未満で二位。弘前大会で福浦勝が三位に入賞。出島が平成十一年七月場所(名古屋場所)横綱曙との優勝決定戦で幕内初優勝という快挙を達成し、三賞トリプル受賞を果たした。場所後、大関の座についた。

平成十二年には、国体優勝の渋谷悟、湯浅忠、森川一、内忠介が入部。東日本大会、刈谷大会で三位。成田旭が全日本アマ大会、全国大会、東日本大会でそれぞれ三位に入賞。東日本体重別百三十五㎏未満で優勝。伊勢健司が全国体重別百十五㎏未満で三位。

平成十三年には、坂下昭徳、松岡幸一、馬場功、清水孝三が入部。東日本大会で二位、宇佐大会で三位。個人では四年の成田旭が全国大会で優勝。その他七尾大会、東日本体重別並びに全国体重別百三十五㎏以上で優勝。宇佐大会で三位、弘前大会で二位と立派な成績を挙げた。渋谷悟が七尾大会三位、東日本体重別ならびに全国体重別の無差別で二位。和歌山大会で高岡鉄也が三位。ОBとなった矢島健一が九州大会で優勝、刈谷大会で三位に入賞している。若孜が平成十三年五月場所(夏場所)新入幕を果たす。

平成十四年には、山口弘和、岩本光、村井栄太、楢本明弘が入部。全国大会で三位、十和田大会で二位、九州大会で優勝。個人で渋谷悟が全日本アマ大会で三位、全国大会で二位、宇和島大会で三位に入賞。ОB矢島健一が刈谷大会、九州大会で優勝している。

成田旭が平成十四年五月場所(夏場所)幕下付け出しで初土俵を踏む。同年九月場所(秋場所)十両昇進し四股名を成田から「豪快な相撲で豪華な風が吹くように」との願いをこめて師匠の尾車親方が「豪風」と命名した。平成十五年三月場所(春場所)に新入幕を果たす。

平成十五年には、中村淳一郎、長澤秀、森裕由が入部。和歌山大会で三位。四年生渋谷悟が七尾大会で三位、宇佐大会で三位、東日本体重別百三十五㎏以上で優勝、全国体重別の同クラスで三位。坂下昭徳が東日本体重別百十五㎏未満で2位。ОBの矢島健一が和歌山大会で三位。同じくОBの栄雄誠が九州大会で三位。

魁道が平成十五年五月場所(夏場所)十両に昇進。

平成十六年には、渡邊亮太、中村琢磨、高橋史匡、渡邊勝也、冨田有輝が入部。個人で東日本体重別百㎏未満で森裕由が三位、百十五㎏未満で坂下昭徳が三位。

平成十七年には、市村太貴、木津谷圭輔、馬場俊輔が入部。七尾大会三位、宇和島大会三位。村井栄太が宇和島大会で二位、高橋史匡が全国体重別百三十五㎏以上で三位。

平成十八年度、鎌谷健太郎、神谷翔太、澤田祥が入部。玉春日が平成一八年七月場所(名古屋場所)技能賞獲得。若孜が同場所千秋楽で現役引退。魁道も同場所後の八月十八日に引退。

平成十九年には、津島竜太、宮本輝、平山甚也、鈴木将夫が入部。豪風が平成二十年一月場所(初場所)十二勝を挙げ、初の敢闘賞を受賞し、三月場所(春場所)三役昇進が決まった。

平成二十年には、出生剛志、大谷周也、黒木直弥、藤川翔太郎、横山雄大が入部。玉春日が平成二十年九月場所(秋場所)千秋楽に引退を表明。幕内在位六十七場所、三賞五回、金星七個。年寄り「楯山」の襲名が承認された。  平成二十一年には、佐藤勇輝、遠藤賢太が入部。平成二十一年五月三十日両国国技館に於いて、玉春日引退・楯山襲披露大相撲断髪式では約三百人が鋏を入れ、引退大相撲には珍しく、中央大学応援団の学生が応援を披露し華を添えた。出島が平成二十一年七月場所(名古屋場所)十一日目の七月二十二日現役引退表明。幕内在位七十四場所、幕内最高優勝一回、三賞十回、金星六個。年寄り大鳴戸を襲名。  平成二十二年には、平成二十二年三月一日より楯山から年寄り名跡片男波を襲名、片男波部屋を継承。  平成二十二年五月二九日両国国技館に於いて、出島引退・大鳴戸襲披露大相撲断髪式では約三百人が鋏を入れた。  東日本大会個人で、津島竜太が2位に入賞。
(中央大学相撲部記念誌より抜粋)

(注) 上記大会の正式名称を→の略式名で掲載してある。 全日本相撲選手権大会→全日本アマ大会、全国学生相撲選手権大会→全国大会、東日本学生相撲選手権大会→東日本大会、全日本大学選抜七尾大会→七尾大会、 全国選抜大学・実業団刈谷大会→刈谷大会、全国大学選抜高知大会→高知大会、全国選抜大学・実業団対抗和歌山大会→和歌山大会、大学全日本大学選抜宇和島大会→宇和島大会、全国選抜大学社会人対抗九州大会→九州大会、全日本大学選抜十和田大会→十和田大会、東日本学生個人体重別選手権大会→東日本体重別、全国学生個人体重別選手権大会→全国体重別、全国大学選抜宇佐大会→宇佐大会、全国選抜社会人学生弘前大会→弘前大会